ほんとうにすこやかなわらい

ほんとうにすこやかなわらいとは、なんだろうか。


人が、その弱さゆえに愛すべき存在であると認識することから生れる笑いは、すこやかでないだろうか。

 

わたしは、人をその弱さゆえに愛し、ほほえむことができるだろうか。

わたしは、ほんとうにすこやかにわらいたい。

言うということ

自分の中にあるものを殺していたことが、いかに膨大であるか今さらながら気づきはじめている。

 

胸の中で押し殺してきた無数の声。例えば人の集りの場面で、感じていること。それを言うと場違いになるとか、他者と違う意見を表明することの恐れのようなもので殺して来たけれど、本当は生きたかったものたち。

 

生かしてあげてもいいのではないだろうか。これ以上自分を死なせたくない。

 

ちょっと大げさに言うと、あるきっかけでそのように思って、そういったことをこれまでより積極的に話して見るという、ある種実験的な一週間だった。言ってみる、外に出すというのは、状況に自己を投与する、そこに前向きに関与するということ。何も言わないことも、状況への関与の仕方の一様態ではあって、計らずとも他者へ影響を与えざるを得ないけれど、言って見ることでわかったのは、それによって他者との触れ合いの感触をより確かに感じられるということ。

 

殺していたものが、生きるようになったのだから、それは楽しい一面もある。
感じたことを信頼してその通りいってみるということ。何だか生き生きとしている感じがするし、周囲との関係性も少し変わってきた感じもする。その状況を生きている、という感じ。悪くない。いやよかったのではないか、という総じての評価。

 

では、うまく行く事ばかりでそれがすべてかというと、そうでもない。
言って後悔するという新しい体験をしている。これまでは、言わずに鬱積させ、よどみをからだの中に生み出していたものではあるが、それとはまた少し違う。あぁ、うかつなことを言ってしまった、という後悔。他者の受け取りを恐れて、表現しないことを辞めたが、いざ言ってみて言ってしまった事への後悔が生じてくる。

 

いや、これは、正確に言うと、言ってみたけど、言いたいことでないことを言ってしまったというか。本当に伝えたかったことを言えなかった感覚。言った事をどう受け取られるか、という以前に、そもそも自分が言いたかったことを満足に自分で言えていない、ということが何だか悔しい感じがする。満足に言えた結果、相手に本意でない受け取りをされるのならまだしも、そもそも満足に言えていない、という悔しさ。

 

そう、だからこれは言ってしまった事の後悔というより、言いはしたが、それは本当に言いたいことではなかったという後悔だ。本当に言いたいことが、言いきれなかった。すごくぎこちない。思いをその場で言葉に形づくるということが。どう練習して行けばいいのかな。幸いにして日常の場面で機会は多く与えられている。

 

ところで、話すことによって得られる、その場その状況、他者との触れ合いの感覚、接触の感覚、手ごたえ。ある意味で、思いを言うというのは、その瞬間の自分を他者にさらけ出すということだ。だから、思いを言うということは、状況や他者への生身の関与なのだと言える。そして、人は関与によって、現実の手ごたえを得るものであるとするならば、関与の質の変化によって、現実の手ごたえの質も変わってくるはずではないか。思いを他者に正確に言えるようになったとき、わたしにとっての現実はどのようなものとして実感されてくるのだろう。

映え出で、空への招き

充分に平らかな光を照らしあてるからだの現成、
透明な晴れなる現像の映え出で。

 

照らしあてる平らかな光で、からだはある。照らしあてる平らかな光であるような、そのような、「からだ」。
平らか
ゆらぎなく、空である。そこにものは満ち、映える空である。
光は空であり、わたしは空である光である。
光は痛んでいない。光は苦悩しない。
光は痛みを持ち、苦悩を持つ。しかしながら、光は痛みや苦悩であるのではない。
光は平らか。

光は、身(からだ)。
光は、身、空。そして光が照ることが私。光として生きるわたしが、身。
生きることは、ものを観じることとして進行する持続。そしてそれは、光として生きる私である、からだ。そのからだは、空なるからだ。

現成
成る。そして実現する。実現とは、事実、現ずること。
事実、現ずるというリアリティが、わが身として起こる。その事実現ずるリアリティが、そのまま身であり、わたしということ。

映え出で
対象に働きかけることで、対象が変ずるのではない。
心身のmodeが調律されるとき、自ずと映現する事物の映現仕方が変ずる。心身のmodeに応じ、ものの映現が変わるのである。

出で
操作によってでなく、むこうから現ずることを言う。映現様態を変えようと、心身が意図するのでない。心身が平らかな光である時、対応して、事物は透明な晴れなる映え出でとして、自らを顕す。あるいは、映現に従って、自身を委ねること。
映え出でとは、存在の露現。その成り行きに任せるところ、それが空なる、平らかなる光としての、からだ。

 

充分に平らかな光を照らしあてるからだの現成、
透明な晴れなる現像の映え出で。

 

 

映え出でとは、存在の露現である。映え出でに応じ、空なるからだへ招かれる。

ロジャーズの『クライアント中心療法』 第2章の要点と思われる箇所を読みながら。

 

クライアント中心療法 (ロジャーズ主要著作集)

クライアント中心療法 (ロジャーズ主要著作集)

  • 作者: カール・R.ロジャーズ,Carl R. Rogers,保坂亨,末武康弘,諸富祥彦
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  • メディア: 単行本
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 ロジャーズ主要著作集2『クライアント中心療法』カール・ロジャーズ著(保坂、諸富、末武共訳)より。

 

《引用Ⅰ》
「また、本書は生命についての本とも言えるのではないかと思います。心理療法過程には生命そのものが鮮明に現れます。生命には目に見えない力が備わっており、破壊をもたらす巨大な容量もありますが、成長の機会が与えられると、成長に向かって圧倒的な推進力を発揮するのです。」(p.7)


《引用Ⅱ》
「それゆえ、クライアント中心のカウンセラーに最適と思われる態度についてのオリエンテーションについて、さらに要約された、限定された言い方で説明すると、カウンセラーは一貫して、人は潜在的に意識に現れる人生のすべての状況に建設的に対処するだけの十分な能力を持ち合わせている、という仮説に基づいて行動すると言えるのではないだろうか。つまりこれは、クライアントの意識になんらかの素材が現れるような、ある対人関係状況を生み出すことを意味する。そして、また、カウンセラーがクライアントを自分自身をコントロールする能力をもつ一人の人間として受け容れていることに他ならない。」(p.27)

 

《引用Ⅲ》
「クライアント中心のオリエンテーションに立つ心理臨床家にとって、クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力こそ、人間の能力を尊重し、信頼するという中核的仮説を実行することに他ならない。」(p.38)


引用Ⅱより「人は潜在的に意識に現れる人生のすべての状況に建設的に対処するだけの十分な能力を持ち合わせている」。ここで言う「十分な能力」が、引用Ⅰでは「成長に向か」う「圧倒的な推進力」の発揮、と言われているのだろう。成長に向う、圧倒的な推進力を人は(生命)はもち、人生のどのような場面でもその能力によって建設に対処して行くことができる、という仮説。このような仮説をクライアント中心のカウンセラーは、もっている。この仮説が、どのように具体化・実行されるかが、引用Ⅲの「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」という言葉で言われている。つまり、この仮説を実行するとは、クライアントの内側に入り、立つべく誠実に努力することである。そしてこれは同時に、「成長の機会」(引用Ⅰ)イコール、「クライアントの意識になんらかの素材が現れるような、ある対人関係状況」(引用Ⅱ)を生み出すことでもあるのだろう(引用文にそうと明示的に書かれているわけではないが)。カウンセラーはクライアントとの間にある対人関係状況を生み出し、この対人関係状況が、クライアントにとって、成長に向う機会として活用される、と。

 

 

「クライアントの内側に立つ」「誠実な努力」「クライアントを自分自身をコントロールする能力をもつ一人の人間として受け容れている」

という言葉からはそれぞれ、例の「必要十分条件」の論文で整理される、

「共感的理解」「一致性・誠実性」「無条件的積極的関心・受容」

というコンセプトとのつながりを思うこともできる。

 

それにしても、引用Ⅲは、すごい。「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」が即ち、「人間の能力の尊重と信頼」という仮説の実行である、と! つまり逆から言うと、人間の能力の尊重と信頼でないような、「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」は、ロジャーズの言うそれではない、ということになる。

(これは、飛躍はあるかもしれないが、後の概念を使うなら、「カウンセラーの一致・共感的理解・無条件的積極的関心とは、有機体の実現傾向への尊重と信頼そのものである(実現傾向への尊重と信頼の具体であり実行である)」という言い方ができるのではないか。そして「有機体の実現傾向」とは、引用Ⅰの言い方を借りると、生命そのものの新鮮な現れ――であるだろう。)

 

仮説とその実行というと、科学者が自己と対象を切り離し、対象の一定の条件下での振る舞いを観察することを標榜するような実験のことを、わたしはイメージしてしまうが、ここで言われている仮説とその実行は、きわめて価値的で、カウンセラーの実存的な関与(コミットメント)を要する営為であるように思える。なにせ、「生命そのもの」への信頼、というわけだから。自らの行動より生ずる結果に開かれ、理知による怜悧な分析と信念の修正に積極的である、というこの態度をも含めて。

 

 

 

 

河合隼雄『明恵 夢を生きる』 こころの撹拌

河合隼雄先生の、『明恵 夢を生きる』を読んでいる。

 

読むという行為を通して、心が撹拌(かくはん)されていると言ったらよいだろうか。読書体験が作用して、ごよごよと心がうごめいているようだ。一体このこころは、何を生み出し、何をもとめ、結局何処へ動いて行くのだろう。読むことが深く作用し、心身が静かに、しかし大きく得体の知れない力でうごめきだすという体験は、クレイグの『結婚の深層』を読んだときにも、起こったことである。確か、この本の前書きか何処かで推薦者が「この本は心理療法的である」と書いていたように記憶しているが、読むという体験を通し、人間が変容を遂げることを、あるいはその人間の全存在が(と言って極端であれば、深いレベルからその人の存在が)創造的にうごめき立つことを、心理療法的という言葉で言っているのであれば、この河合先生の『明恵』もわたしにとっては、心理療法的であると言える。

 

クレイグを読んだ当時、夢に鉛色にうねる海を見、箱庭でも同様の海を臨む風景を作ったのだった。今回『明恵』を読み始めてから三日。連続して夢を記憶している。このような事はしばらくなかった。夢を一日でもはっきり記憶していることすら無かった。河合先生の『明恵』が読者(わたし)の心を内海(内界と打とうとして、このようにコンピュータに変換された。面白いのでそのままにしておく)のイメージへの注視へと向かわせている影響は明らかだ。

 

しかし、人間の存在がこのような仕方で変容を遂げるというのは、必ずしも心地よいものでないと感じる。フォーカシングであれば、新しい気づきがもたらされるとき、気づきの内容が認めるにうれしい内容でなかったとしても(「わたしは父親をずっと憎んでいた」)、身体的な解放感をもたらす(フェルト・シフト)。今体験していることは、日常と異なる体験の水準へと潜り浸り、何者かの不可思議な体感に、じわじわと身が浸透されているような感じであって、解放性や心地よさとは異なっている。単に形式的でない、冥く、熱を帯び、生々しい迫力を伴った宗教的な儀式に参加している時のような(と言っても実際参加したことは無いので想像にすぎないが)、何かの気配と蠢きと躍動を感じるような、雰囲気。非日常性に浸されているような心地。ここでは雰囲気と心地は区別がつかず、一体だ。そのような心地を引きずりつつある中でも、日常の仕事を初めとする一般の社会活動には参加しているのではあるが…。

 

このような、一般社会の道徳・規範・常識を超え出して、ある種狂気と隣接するような領域に、これほど惹きつけられながら、昼間何食わぬ顔をして、人と会っていることに、奇妙な感じを覚えもする。わたしは人間なのだろうか、ここは人間が住む人間の世界なのだろうか、といった突飛な思考すら浮かんでくる。深い水準の定かならぬ領域に知らず引きずり込まれたような感じがする。暗く未知なるものの律動への心の開けと同時に、理知的な明晰性あるいは言語的裁断性、そして深く感動しながらも非陶酔・非埋没的な透明で注意ぶかい観察眼を兼ね備えていなくてはならないのだろう。

 

 

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

 

 

私は

私は見、
私は聞き、
私は触れ、
私は嗅ぎ、
私は味わい、
私は思う。

 

像がそこに見える。例えばディスプレイとそこに映る文字が。
音がそこに聞こえる。例えばBarry Harrisのピアノ。
感触が感ぜられる。例えばキーボードのプラスチック素材の表面の平らさ。
匂いがそこにある。例えば番茶の香り。
味もここにある。例えば番茶の甘い味。
思いがここにある。例えば何を書こうかと思う思いが。思いには、含まれる。過去の像、未来の計画。遠く離れた場所にいる母の顔。父の言っていた言葉。自己像、自己規定。他者の発した情動の残響。いまここに「ない」ものが思いにおいて「ある」。


私は、色でない。
私は音でない。
私は固さ(触れた感覚)でない。
私は匂いではない。
私は味でない。
私は思いでない。自己像は、自己についての表象として浮かぶそれは、わたしではない。


私はそれらを観る。しかし、
私はそれらでない。
私はそれらのなかにない。
私はどこにもいない。
私はどこにもいない、しかし、
私はそれらと出会うあらゆる場に臨む。

 

 

どこにもいないそいつとして生きる

イメージされた自己(自己像)がすなわちわたしなのか。いや、自己イメージを浮かべているわたしこそがわたしだ。でもそいつはどこにもいない。では、どこにもいないそいつとして生きてみられたらどうなる。ふだん多かれ少なかれ、いや大いに、自己像=わたし、として迷走しているそいつがもともとそいつであるところの。