問いであるかさえあやふやになる

わたしがいるということ。
それは、こうして世界が開けているということ。
端的なそうであるということ。そうなっているということ。

 

わたしはそれを何度も確かめている。

 

意識の真ん中に、なぜかこの肉体が存在し、そこから世界の体験は開かれている。

 

つまり、こうして、キーボードをタッチし、タッチの感触を確かめ、タイプのカタカタという音をきいているという体験。そして、パソコンの画面上に立ち現れた文字を読んでいるという体験。などなど。

 

そうした体験が「このとおり」開かれているということ。
このようにして体験が開かれていることそのものが、「与えられている」ことを、不思議に感じる。それはいわゆる、生きている、という当たり前の事実であるが。

 

「なぜ、このようになっているのか??」

 

わたしがいるということは、
「『そのとおり』すなわち『だ(である)』」。
「わたし」=「『そのとおり』=『だ(である)』」である。

 

別の言い方をするならば、
「私」=「如(是)」=「現(前)」。
つまり、「私」="suchness"="present"ということ。
云々。

 

…しかし、これは「なぜこのようになっているのか??」の答えではない。「”このよう”とはどのようか?」に対する少しばかりの記述の試みでしかない。

 

わたしが問うているのは、「私=如是=現前」が、「現にかくの如く、つまりわたしとして」成立しているのは、いったいなぜなのか?? という問いだから。しかし、この問いはそもそも問いですらあるのだろうか。一体何が与えられれば、答えられたことになる問いであるのかさえ、定かでないのに。

 

 

さよならのオレンジが明けた

3/27

 

皆が一日の務めを終える頃あい、さよならのオレンジが明けていることに気づいた。

 

「さよならのオレンジが明けた」。

 

妙な表現になったが、それは、夕方窓から差し込む陽の光を見て、そこに或る「たしかさ」を感じたという生活雑感の一つに過ぎない。そのたしかさは、かすかな感知だった。つまり季節のぶれ・ぶり返しの揺れ動きを出で、一歩超えたことの。

 

そこで明け(・開け・空け)与えられたオレンジは、予期された回復であり、新しい季節の到来あるいは帰還を示していた。うごめき、再開して行く気配も伴って。

 

ようやく還りついた安堵は、新たに出立する期待を持ってもいた。

別れと出会い。終わりと始まり。

この日感じた春は、帰還と出立であった。

 

記憶の春

春の訪れを感じます。

 

雪国では、長く伸びてきた陽や、雪解けの雫の音が、春の先駆けです。じき、土の匂いが風に交じり、雪下からクロッカスが顔をのぞかせることでしょう。

 

しかし、これほど雪解けの賑やかな嬉しいこの時節、この明るさがもの悲しいのは、春が別れを含意することに由っています。

 

はじまりは終わりでもある(あるいはその逆)という二者の逆説的結合を、情緒的な水準で直に感じさせる体験を、私たちは持っているのではないでしょうか。

 

そこには、眼前のみずみずしい春だけでなく、これまでの人生の積み重なった記憶の春が、同時に味わわれています。

夢の川

夢に、或る川を見た。

 

雪の山間を流れるその川は細く、冷たそうに見えた。

流れる水の響きは、沈黙の気配を耳に伝えていた。

人の言葉ではない言葉を、それは語るかのような。

 

この流れは、どこから来たのだったか。

「源」。何かが起り、生れる場所。

未知のどこか。或る場所。そこへ至る道は拓かれていない。

秘密の、あるいは神秘なるどこか。

憧れが思い馳せる場所。

宇宙塵を食べる星の子の、不可思議な営為

働くということ。

 

それは、社会の中に自分の位置づけを持っているということ。何らかの他者の幸せに寄与する(はずの)役割を得ているということ。そうであるから、働くことで報酬が得られ、いわゆる「生活」が成り立つ。生活を構成するためには、貨幣が必要だから。生活を構成するあらゆるものは、貨幣の交換を通して手元に来るから。

 

働く、という仕方で、わたしは社会内で位置を持つ。
他者と共に生きる悦び、だけでなく苦しみもまた、そこで避けがたく生じる。愛別離苦、怨憎会苦。毎日、自分の持ち場で、人はそうして働く。

 

他方、わたしは、社会の中に、つまり人間(じんかん)にいるだけではない。

 

わたしはパソコンを前にして部屋にいる。この部屋はあるアパートの一室で、それはある町にある。この町は、日本という国に属している。日本は、アジアの東に位置する。アジアは、地球という星のある区域である。わたしは地球という星にいる。地球は、自転しながら太陽を回る。わたし(たち)は回りながら太陽を回る。地球、月、太陽、大勢の星たち。

 

限りの見えない宇宙がこの星を包む。塵のように小さな地球にちょこんと乗った(というか付着した)わたしを、いつも宇宙はつつむ。わたしは、いつも宇宙にいる。社会も人間も宇宙にある。

 

そしてそれだけではない。よく見れば、わたしの眼の前のパソコンのはなつ光に宇宙はある。コップに注がれた水に、宇宙はある。わたしの髪、わたしの爪、わたしの身体に宇宙はある。なぜなら、それらは星屑だから。わたしの身体は星屑であり、わたしの貨幣は星屑である。いったい、星屑、宇宙塵でない何ものかが、この世に存在するだろうか。わたしは宇宙にいる。社会も宇宙にいる。そして、わたしや社会それ自体にも、宇宙を観ることができる。

 

だから働く、ということは、社会的な出来事(イヴェント)であると同時に、宇宙的な出来事(イヴェント)でもあるのだ。

 

それは毎日、宇宙塵を食べる星の子の、不可思議な営為。

久々に池田晶子さんを読んで

無は無なるが故に無い。
つまり存在のみ存在する。

 

無は無いと知ることによって、端的に現に存在が存在しているというそのことを知る。

 

しかしそれは、存在が存在するという同語反復に過ぎない。

「このようになっているということは、このようになっているように、このようである」

とは、一体何を言っているのか。

それは、

「このようになっていない、ということはなく、このようになっているようにこのようになっているもののみがこのようになっている」

ということであるが、このような文は冗長な繰り返しに過ぎず、

論理的には何も規定していない。

AはAであるようにAである、と自同性を言明しても、論理的な情報としては、何も新たに伝達しない。


だから、

 

ないはないのだから、あるのみがある、あるのみが、真に実である

 

そうなっていないことはそうなっていないゆえにそうなっていない、それゆえにそうなっていることのみがそうなっている


云々という空虚な論理の言葉は、
詩の言葉として味わわれるべきであって、
それらが真に表現しているのは、
思惟が、論理という道を通り、論理がナンセンスと化すぎりぎりの際に触れ感じ得る、
神秘の気配、驚きと嘆息。

わたしは目指す

わたしは、だれも知らない場所を目指す。
わたしは、わたしも知らない場所を目指す。
たどり着く保証もないその場所へ歩み得る者は、わたしだけだから。

 

星の数ほどの同胞がいたとしても、彼らの歩んだ道は、わたしの道ではない。
彼らのたどり着いた場所は、わたしの目指す場所ではない。
わたしという存在に、前例はないから。

 

他者による保証は、わたしを満足させるに足らない。
真理は、他者によって教えられることはない。
真理が生きたものとなるのは、自ら立って歩むことによってであるから。それゆえ、

 

わたしは、だれも知らない場所を目指す。
わたしは、わたしも知らない場所を目指す。