大雨や地震のニュースを聞いて。

大地は揺れ、天から豪雨降り注げばあたりは川となる。

人は人の世界内部に自然を飼育・管理し得るかのようにふるまう。

たとえば噴水や街路樹や花壇や排水溝を作って。

しかし人の世に大地や空や雨が属するのではない。

むしろ人の世がそれらに属する。庭の一角で巣作りに精を出す蟻や蜜蜂のように。 https://t.co/61JV6qQcWs

IOFI原理と鳥飛んで鳥の如し felt senseとfelt meaningの違い。

得丸さと子先生の、『ステップ式質的研究法 TAEの理論と応用』を読んでいます。

 

「TAE(Thinking At the Edge)は、うまく言葉にできないけれども重要だと感じられる身体感覚を、言語シンボルと相互作用させながら精緻化し、新しい意味と言語表現を生み出していく系統だった方法です。」(p.5)

 

このTAEの「使い方」の他、(TAEに関連する部分に絞ってではありますが)ジェンドリン哲学へのガイドとしても、わかりやすく、とても面白く読んでいます。

 

いまは詳しくは検討できないけれども、興味を惹いた所をいくつかピックアップしてメモしておきます。

 

「IOFI原理とは『それがそれ自身の実例である原理』です。どんな個も「そのようなもの」の一つの実例であるという意味です。「そのようなもの」としての「まとまり」の先にあるものが「普遍的なもの(X)」です」(p.16)

 

「人間にとっては、常に何でも、『何かのように』見え、聞こえており、パターン(シンボル)の背後には、常に「のようなもの」があります」(p.167)

 

道元の「鳥飛んで鳥のごとく、魚行きて魚に似たり」を思い出しました。「鳥飛んで…」はIOFI原理の実例を示す文だと考えるならば、理解することができる。個別的なその鳥は鳥の如きものであって、「鳥」の実例であり具体である。IOFI原理と、事事無礙というか華厳の四法界の関係は。……?

 

「本質」とは、「何であるか性」です。意識は何かをもたずに志向することはできない。意識の志向性は何かについての志向性であり、「何か」に向って行く。意識は本質をもたずにはいられない。だから「人間にとっては」(通常の意識にとっては)、何でも「何かのように」見え、聞こえる。これは、何であってもそれをそれとして指示する時すでにそれは本質規定的にそこにあるものとして志向されるということであり、対象は一般者に媒介されている、ということだとも言える。

 

いや、ジェンドリンが、「本質」とか「一般者(普遍)」とか「媒介」とか、既存の哲学用語を使わずにオリジナルな言葉で語っているところに、妙味があるのだから、さしあたっては余計な他からの持ち出しはせずに、そのまま読むべきか。

 

もうひとつだけメモ。

felt meaningと、felt senseは、同じと考えて良いと言われているが、違うのでないか。

 

ECMでは、体験過程とfelt meaningがほぼ同義に使われ、それはいつもそこにあると言われている箇所がある。「その塊自身は我々が”それがある”と言おうが言うまいが、いつでもそこに存在するものなのです」(『体験過程と意味の創造』p.34、ジェンドリン。筒井訳)

 

他方、フェルトセンスは通常、「ただそのまま存在しているわけではありません。それはかたちづくっていくべきものなのです」(『フォーカシング』p.29、ジェンドリン。村山他訳)。つまりフェルトセンスの形成には、直接に照合するというinnner actが必要。

 

だから、felt senseとは、直接に照合されたfelt meaningのことであると、意味的にはより特殊なものと解してはどうか。felt meaningに直接に照合し、形づくられるのが、felt senseである。そしてfelt meaningは直接に照合されなくとも日常的にいつもそこにあって、暗々裏に機能しているそれである、と。(いまは「…機能しているそれである」と「それ」として指示されるが、普段は「それ」としてすら指示されることなく機能し得、また時に「それ」として指示され得もする「それ」。)

 

うーん。ECMのp.34周辺以外のfelt meaningの用法も確認せねば。

フォーカシング-ジェンドリンからの恵み

「いまに全てを空け渡す」「自分を道端の小石のように、そこにおいておく」。

 

日常の様々な困難さの最中、例えば通勤までの電車の中で、こうした言葉が浮かび上がることがある。わたしはことばの持っている滋養が静かにからだに沁み行くのを確かめ、そのまま、それを味わう。

 

外的現実の何が変わるのでもない。従事しなければならない勤めは、そこにある。不安や恐れを抱いている私がそこにいる。しかし、そこにいると、それらの隙間からやがて柔らかく暖かい何かが現れる。それを招き、迎えるとき、祈りの内に感謝をささげるような気持ちが満ちてくる。

 

…わたしは何に感謝するのか。わたしは何にわたしを空け渡すのか。「何」の「何」かは知れぬ何か、あるいは「どこか」。「それ」は、我ならぬものであることは確かであるが、それに対して。…

 

さて、ユージン・ジェンドリンのFocusing(フォーカシング)から学んだこと(のひとつ)は、言葉を体験的に用いるということである。つまり、体験(正確には体験過程)に照らし観つつ言葉を用いる・あるいは言葉をからだの感じに響かせてきく(聞く・利く)ということである。

 

と言いながら、上の例が、正確に「フォーカシング」であると言っていいかどうかはよくわからない。今ここで眼を覚ましているという意味で「瞑想的」、あるいは、我を越えた何かへのdevotion(身を捧げている)という意味では「祈り」のようだ、と言ってもよいのだろうか。 

 

わたしにとってたしかなのは、「今にすべてを~」「自分を~」ということばがからだに明かな違いをもたらしたということ。そして、このようにからだの違いに常に照らすことを学んだのはフォーカシングからである、ということ。

 

これらのことばが明日役に立つかをわたしは知らない。もはや陳腐な間延びした言葉としか感じられず、からだは響応しないかもしれない。ジェンドリンは、フェルト・シフト(felt shift)は、「恩寵」(grace)だと言っている("Focusing",p.59)。それは操作の対象ではない。そうではあるが、あるとき、ある場所で、ある言葉が、わたしに新鮮な何かをもたらし、生の質を変えるという体験が存在する。そうした不思議への驚きの感受、喜びや感謝を、わたしはフォーカシングによって豊かにされているのである。

 

 

真夜中のパーティ

『真夜中のパーティ』を読んでいる。
フィリパ・ピアスによる短編集。
いわゆる「児童文学」であり、ことばも固くは無いので、読むのは大変ではない。しかし一気には、何故か読めない。一編一編、日を置いて読んでいる。

 

わたしは児童文学が好きで、エンデの『果てしない物語』『モモ』やル=グウィンの『ゲド戦記』といったファンタジー作品が特に好きである。(『果てしない物語』なんかは、おそらく10回くらいは読んでいる。読むたびに感銘を受けるところが変わる。そういう意味で読むたびに、別の本を読んでいるようでもある。)
同じ作者であるピアスの『トムは真夜中の庭で』もファンタジー的な要素(現実には存在しない庭に入り込む、という)があり、あの「庭」の情景を思い浮かべるだけで、胸がぎゅっとする。大好きな作品である。

 

さて、この本(『真夜中のパーティ』)には、「いわゆるファンタジー」的なところはない(少なくともこれまで読んだ4編には)。
父や母、きょうだい、川や木や、そこにすむ動物たちや、近隣にすむ人々。自然の情景、ごく普通の子どもの生活世界の豊かさ、そうした描写がとても心地よい。のどか、なごやか(牧歌的?)、とも言える日常性の中で起こるドラマが描かれている。

 

そのような意味で、「いわゆるファンタジー」のような超自然的なものは何も登場しない。例えば「竜」や「魔法」や「夢の中に入り込む」というようなことは。

 

にもかかわらず、この本は、通常の善悪(あるいは通常の合理性)を越えたものを垣間見せてくれる。それも実に淡々とした筆致で。それが、読後にとても不思議な感触を胸に残す。

 

この作品においては、ほんとうに何でもないふつうの人間の生活の中に「それ」が示されているのであって、ファンタジーの世界の中でではない。だからこそ、「それ」の意味がものすごく際立ってくるように思われる。

 

例えば、ダンの「これから起こそう」(p.94)としたこと。それを知っているから読者は、「礼なんかいうなよ」(p.99)という「何でもない」一言に、静かにゆさぶられる。

p.76のリッキーの流した涙も似ている。わたしも「どうして悲しくなって泣いたりしたのか、ふしぎに思」う。そして小さなリッキーの存在に奥行きを深々と感じ、ある種畏敬の念に打たれる。

「よごれディック」という存在もすごい。ディックがうらやましいと言えば母さんに起こられるし、ディックのお古の自転車を使っていればからかわれるだろうから、「ぼく」は使わない。でもぼくは本当にディックがうらやましいのだ!!

 

ダンの起こそうとしたこと。
リッキーの涙。
ディックという存在。 

これらすべては、日常の生活の最中にある。
そしてこれらは、ふしぎなゆらめきをもちながら、日常の意味世界(例えば、「動物虐待防止協会」とか)のなかでぼんやりと光り、そこから新鮮な意味をにじませる。この作品は「いわゆるファンタジー」ではない。にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、わたしはこの作品を読み、「いわばファンタジー的なもの」は、日常の中に実在する生きた力なのだと、そう思う。

 

 

問いであるかさえあやふやになる

わたしがいるということ。
それは、こうして世界が開けているということ。
端的なそうであるということ。そうなっているということ。

 

わたしはそれを何度も確かめている。

 

意識の真ん中に、なぜかこの肉体が存在し、そこから世界の体験は開かれている。

 

つまり、こうして、キーボードをタッチし、タッチの感触を確かめ、タイプのカタカタという音をきいているという体験。そして、パソコンの画面上に立ち現れた文字を読んでいるという体験。などなど。

 

そうした体験が「このとおり」開かれているということ。
このようにして体験が開かれていることそのものが、「与えられている」ことを、不思議に感じる。それはいわゆる、生きている、という当たり前の事実であるが。

 

「なぜ、このようになっているのか??」

 

わたしがいるということは、
「『そのとおり』すなわち『だ(である)』」。
「わたし」=「『そのとおり』=『だ(である)』」である。

 

別の言い方をするならば、
「私」=「如(是)」=「現(前)」。
つまり、「私」="suchness"="present"ということ。
云々。

 

…しかし、これは「なぜこのようになっているのか??」の答えではない。「”このよう”とはどのようか?」に対する少しばかりの記述の試みでしかない。

 

わたしが問うているのは、「私=如是=現前」が、「現にかくの如く、つまりわたしとして」成立しているのは、いったいなぜなのか?? という問いだから。しかし、この問いはそもそも問いですらあるのだろうか。一体何が与えられれば、答えられたことになる問いであるのかさえ、定かでないのに。

 

 

さよならのオレンジが明けた

3/27

 

皆が一日の務めを終える頃あい、さよならのオレンジが明けていることに気づいた。

 

「さよならのオレンジが明けた」。

 

妙な表現になったが、それは、夕方窓から差し込む陽の光を見て、そこに或る「たしかさ」を感じたという生活雑感の一つに過ぎない。そのたしかさは、かすかな感知だった。つまり季節のぶれ・ぶり返しの揺れ動きを出で、一歩超えたことの。

 

そこで明け(・開け・空け)与えられたオレンジは、予期された回復であり、新しい季節の到来あるいは帰還を示していた。うごめき、再開して行く気配も伴って。

 

ようやく還りついた安堵は、新たに出立する期待を持ってもいた。

別れと出会い。終わりと始まり。

この日感じた春は、帰還と出立であった。

 

記憶の春

春の訪れを感じます。

 

雪国では、長く伸びてきた陽や、雪解けの雫の音が、春の先駆けです。じき、土の匂いが風に交じり、雪下からクロッカスが顔をのぞかせることでしょう。

 

しかし、これほど雪解けの賑やかな嬉しいこの時節、この明るさがもの悲しいのは、春が別れを含意することに由っています。

 

はじまりは終わりでもある(あるいはその逆)という二者の逆説的結合を、情緒的な水準で直に感じさせる体験を、私たちは持っているのではないでしょうか。

 

そこには、眼前のみずみずしい春だけでなく、これまでの人生の積み重なった記憶の春が、同時に味わわれています。