なぜ自殺で楽になるのか(4)

 

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A「いやいや、絶対的な無だろうと部分的な無だろうとなんであれ、少なくとも、借金の取り立てがないことは確かなのだから、いま楽になる。それで別段説明として問題はありません。」

B「言われてみれば、そうですね。部分的な無であろうと、部分的でない無であろうと、ともかく「無い」という観念が今わたしを救う。余計なことを言いました。」

A「ところでしかし、「無い」という観念は、「有り」ますね。「有る」という観念も、「有り」ますが。「無い」という観念で救われる場合もあれば、一方で、「無い」という観念で苦しむこともありますね。」

B「うん、明日食う食べ物が「無い」とか。」

A「有るとか無いの思い一つで楽になったり苦しくなるのならば、都合よく「有る」とか「無い」とか思って生きていけないものでしょうか。」

B「何の根拠もないけど、明日の飯は「ある」に違いない、とか?」

A「そうそう。でも根拠ないから結局餓死するかもしれない。でも俺が死ぬことは「無い」と思っていれば、問題はないかもしれない。あるいは、死んでも極楽が「有る」と思って死ねば、安楽に死ねるかもしれない。」

B「そもそも、生きているなんてことが「有る」んだろうか。あるいは俺なんてものは「有る」んだろうか。俺なんてもんは「無い」んだ、「俺なんてもんは『無い』んだ」と思っている俺なんてもんも「無い」んだ。…って生きてみたら、もうだいぶ楽じゃないでしょうか。」

A「たしかに。俺の人生を生きている俺なんてものは「無い」って思えたら、そして、「無い」と思いながら、そのまま生きることができたら、違うでしょうね。
 そもそも、私が生きていると思っていましたが、生きているというのは、誰が生きているのか。俺が有るだの無いだの、都合よく思ったり思わなかったりすることが起きているその生を生きているのは、一体何なのか。いや、違う。その生を生きるのは「誰」とその都度取り立てて「言う」こともなく、そもそも進行してしまっているこの「生」、「それ」を「生」と言ってしまっていいがわかりませんが(とりあえずそう言っておきますが)、”これがそうなっているというこのこと”は、私が生み出したのではない、ということ! ”これがそうなっているというこのこと”!! それが「一体何か」「なぜか」云々と今は問おうとは思いません。いまは、「!!」でありたい。

 「つらいことがあったら死んでしまいたい」。これも、私が生み出したのではないところの「これがそうなっている、このこと」の一部なのであり、そして「!!」への感度はわたしを豊かにしてくれますから。」

内的な沈黙

音声として言葉を外に発さない時でも、こころのなかに、想念を巡らせているなら、内面的には沈黙してはいない。電車に揺られ、見知らぬ他者の間にいて、口を閉ざしていても、悩みや不満に囚われている時、心の中には、様々なイメージや、言葉が去来している。いわゆる「内言」。ひとり黙っていても、内的には様々なことを自己に語り、思いを巡らせ得る。それは、自覚的にも、無自覚的にも起こる日常の事実である。真に黙っていることはきわめて少ない。まずはその事実に気づくことから始まる。

 

ただ、音声を発することなく「黙っている」という、通常の意味での沈黙を外的な沈黙とするなら、「内的な沈黙」とでも呼ぶべき実存の様態がある。その時、人は想念を心によぎらせることがない。自らが自らに語ることをやめる。心に像を作り浮かべることをやめる。

 

さて、他者に心から耳を傾けるには、内的な沈黙を要する。
内的に沈黙していない時、他者がそこにいることを感じることは困難である。例えとなりに人がいて、私に語りかけてきていても、わたしがわたしの想念にとらわれ、巻き込まれ、気もそぞろであるならば、他者の言葉や存在は、わたしの中に入ってこない。入って来ても、しっかりとそれは感じられていない。

 

他者と共にいる「そこ」にしっかりおり、他者に耳を傾けるためには、内的な沈黙を要する。内的に沈黙するその時、他者の存在に真に触れうる空間(「ここ」として直指され得るたったいまの「そこ」。それとわたしの存在は別ではありえない)が開かれるからである。

わたしが無的な包摂である場所にいる

自分が前ノートに書きつけた言葉に救われた。


「無的に包摂するとは、自由ならしめる空間をつくること。
 ここでは、包み込むことが、解放することである。

 

 私が無的に包摂するのではない
 私が無的な包摂であるのだ

 

 現在に全てを空け渡そう
 私を一粒の小石の如くそこにおいておこう」

 

…この言葉を誰かが読んでくれたとして、その方が理解してくれると期待してはいけないだろう。語の用法が私的すぎるから。その意味を改めて解説することすら困難である。例えば、「私」の語で言われているものは、二種類あるのだが、その意味を分節し、言葉で語ることができたなら、哲学になるのかもしれない。あるいは詩になるのか。自分にとっては、これと直接触れられるように思われることが、公共的には通用しない。

 

しかし、この言葉が、自分には「効く」。「私が無的な包摂である」。これの示すところに「いる」(「ある」)と、事実、不安感のようなからだのもやもやが私から解けていく。この言葉は、この言葉が出てきた体験を、ある意味で、喚起するのである。体験から出た言葉が、もとの体験を喚起してくれる(有難いことに!)。

 

今は「わたしが無的な包摂である場所にいる」という言い方が、しっくりくる。

 

「わたしが無的な包摂である場所にいる」。

 

アクセプタンス&コミットメントセラピーの言い方を借用すると、これは「観察者としての自己」(「文脈としての自己」)でいる、という説明の付け方も可能ではある。なんだか、意味が取りこぼされてしまう気もするが。しかしそう説明するならば、この言葉を思い出し、味わうことは、ある種の「マインドフルネス・トレーニング」であるということになるだろう。それは、純粋に「いま・ここ」と接触すること、というよりむしろ、「いま・ここ」に「なる」ということ、「いま・ここ」で「わたしはある」ということ。それに等しい。

 

 

ほんとうにすこやかなわらい

ほんとうにすこやかなわらいとは、なんだろうか。


人が、その弱さゆえに愛すべき存在であると認識することから生れる笑いは、すこやかでないだろうか。

 

わたしは、人をその弱さゆえに愛し、ほほえむことができるだろうか。

わたしは、ほんとうにすこやかにわらいたい。

言うということ

自分の中にあるものを殺していたことが、いかに膨大であるか今さらながら気づきはじめている。

 

胸の中で押し殺してきた無数の声。例えば人の集りの場面で、感じていること。それを言うと場違いになるとか、他者と違う意見を表明することの恐れのようなもので殺して来たけれど、本当は生きたかったものたち。

 

生かしてあげてもいいのではないだろうか。これ以上自分を死なせたくない。

 

ちょっと大げさに言うと、あるきっかけでそのように思って、そういったことをこれまでより積極的に話して見るという、ある種実験的な一週間だった。言ってみる、外に出すというのは、状況に自己を投与する、そこに前向きに関与するということ。何も言わないことも、状況への関与の仕方の一様態ではあって、計らずとも他者へ影響を与えざるを得ないけれど、言って見ることでわかったのは、それによって他者との触れ合いの感触をより確かに感じられるということ。

 

殺していたものが、生きるようになったのだから、それは楽しい一面もある。
感じたことを信頼してその通りいってみるということ。何だか生き生きとしている感じがするし、周囲との関係性も少し変わってきた感じもする。その状況を生きている、という感じ。悪くない。いやよかったのではないか、という総じての評価。

 

では、うまく行く事ばかりでそれがすべてかというと、そうでもない。
言って後悔するという新しい体験をしている。これまでは、言わずに鬱積させ、よどみをからだの中に生み出していたものではあるが、それとはまた少し違う。あぁ、うかつなことを言ってしまった、という後悔。他者の受け取りを恐れて、表現しないことを辞めたが、いざ言ってみて言ってしまった事への後悔が生じてくる。

 

いや、これは、正確に言うと、言ってみたけど、言いたいことでないことを言ってしまったというか。本当に伝えたかったことを言えなかった感覚。言った事をどう受け取られるか、という以前に、そもそも自分が言いたかったことを満足に自分で言えていない、ということが何だか悔しい感じがする。満足に言えた結果、相手に本意でない受け取りをされるのならまだしも、そもそも満足に言えていない、という悔しさ。

 

そう、だからこれは言ってしまった事の後悔というより、言いはしたが、それは本当に言いたいことではなかったという後悔だ。本当に言いたいことが、言いきれなかった。すごくぎこちない。思いをその場で言葉に形づくるということが。どう練習して行けばいいのかな。幸いにして日常の場面で機会は多く与えられている。

 

ところで、話すことによって得られる、その場その状況、他者との触れ合いの感覚、接触の感覚、手ごたえ。ある意味で、思いを言うというのは、その瞬間の自分を他者にさらけ出すということだ。だから、思いを言うということは、状況や他者への生身の関与なのだと言える。そして、人は関与によって、現実の手ごたえを得るものであるとするならば、関与の質の変化によって、現実の手ごたえの質も変わってくるはずではないか。思いを他者に正確に言えるようになったとき、わたしにとっての現実はどのようなものとして実感されてくるのだろう。

映え出で、空への招き

充分に平らかな光を照らしあてるからだの現成、
透明な晴れなる現像の映え出で。

 

照らしあてる平らかな光で、からだはある。照らしあてる平らかな光であるような、そのような、「からだ」。
平らか
ゆらぎなく、空である。そこにものは満ち、映える空である。
光は空であり、わたしは空である光である。
光は痛んでいない。光は苦悩しない。
光は痛みを持ち、苦悩を持つ。しかしながら、光は痛みや苦悩であるのではない。
光は平らか。

光は、身(からだ)。
光は、身、空。そして光が照ることが私。光として生きるわたしが、身。
生きることは、ものを観じることとして進行する持続。そしてそれは、光として生きる私である、からだ。そのからだは、空なるからだ。

現成
成る。そして実現する。実現とは、事実、現ずること。
事実、現ずるというリアリティが、わが身として起こる。その事実現ずるリアリティが、そのまま身であり、わたしということ。

映え出で
対象に働きかけることで、対象が変ずるのではない。
心身のmodeが調律されるとき、自ずと映現する事物の映現仕方が変ずる。心身のmodeに応じ、ものの映現が変わるのである。

出で
操作によってでなく、むこうから現ずることを言う。映現様態を変えようと、心身が意図するのでない。心身が平らかな光である時、対応して、事物は透明な晴れなる映え出でとして、自らを顕す。あるいは、映現に従って、自身を委ねること。
映え出でとは、存在の露現。その成り行きに任せるところ、それが空なる、平らかなる光としての、からだ。

 

充分に平らかな光を照らしあてるからだの現成、
透明な晴れなる現像の映え出で。

 

 

映え出でとは、存在の露現である。映え出でに応じ、空なるからだへ招かれる。

ロジャーズの『クライアント中心療法』 第2章の要点と思われる箇所を読みながら。

 

クライアント中心療法 (ロジャーズ主要著作集)

クライアント中心療法 (ロジャーズ主要著作集)

  • 作者: カール・R.ロジャーズ,Carl R. Rogers,保坂亨,末武康弘,諸富祥彦
  • 出版社/メーカー: 岩崎学術出版社
  • 発売日: 2005/06/17
  • メディア: 単行本
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 ロジャーズ主要著作集2『クライアント中心療法』カール・ロジャーズ著(保坂、諸富、末武共訳)より。

 

《引用Ⅰ》
「また、本書は生命についての本とも言えるのではないかと思います。心理療法過程には生命そのものが鮮明に現れます。生命には目に見えない力が備わっており、破壊をもたらす巨大な容量もありますが、成長の機会が与えられると、成長に向かって圧倒的な推進力を発揮するのです。」(p.7)


《引用Ⅱ》
「それゆえ、クライアント中心のカウンセラーに最適と思われる態度についてのオリエンテーションについて、さらに要約された、限定された言い方で説明すると、カウンセラーは一貫して、人は潜在的に意識に現れる人生のすべての状況に建設的に対処するだけの十分な能力を持ち合わせている、という仮説に基づいて行動すると言えるのではないだろうか。つまりこれは、クライアントの意識になんらかの素材が現れるような、ある対人関係状況を生み出すことを意味する。そして、また、カウンセラーがクライアントを自分自身をコントロールする能力をもつ一人の人間として受け容れていることに他ならない。」(p.27)

 

《引用Ⅲ》
「クライアント中心のオリエンテーションに立つ心理臨床家にとって、クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力こそ、人間の能力を尊重し、信頼するという中核的仮説を実行することに他ならない。」(p.38)


引用Ⅱより「人は潜在的に意識に現れる人生のすべての状況に建設的に対処するだけの十分な能力を持ち合わせている」。ここで言う「十分な能力」が、引用Ⅰでは「成長に向か」う「圧倒的な推進力」の発揮、と言われているのだろう。成長に向う、圧倒的な推進力を人は(生命)はもち、人生のどのような場面でもその能力によって建設に対処して行くことができる、という仮説。このような仮説をクライアント中心のカウンセラーは、もっている。この仮説が、どのように具体化・実行されるかが、引用Ⅲの「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」という言葉で言われている。つまり、この仮説を実行するとは、クライアントの内側に入り、立つべく誠実に努力することである。そしてこれは同時に、「成長の機会」(引用Ⅰ)イコール、「クライアントの意識になんらかの素材が現れるような、ある対人関係状況」(引用Ⅱ)を生み出すことでもあるのだろう(引用文にそうと明示的に書かれているわけではないが)。カウンセラーはクライアントとの間にある対人関係状況を生み出し、この対人関係状況が、クライアントにとって、成長に向う機会として活用される、と。

 

 

「クライアントの内側に立つ」「誠実な努力」「クライアントを自分自身をコントロールする能力をもつ一人の人間として受け容れている」

という言葉からはそれぞれ、例の「必要十分条件」の論文で整理される、

「共感的理解」「一致性・誠実性」「無条件的積極的関心・受容」

というコンセプトとのつながりを思うこともできる。

 

それにしても、引用Ⅲは、すごい。「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」が即ち、「人間の能力の尊重と信頼」という仮説の実行である、と! つまり逆から言うと、人間の能力の尊重と信頼でないような、「クライアントの態度の「内側」に入る、クライアントの心の内側に立つ、という誠実な努力」は、ロジャーズの言うそれではない、ということになる。

(これは、飛躍はあるかもしれないが、後の概念を使うなら、「カウンセラーの一致・共感的理解・無条件的積極的関心とは、有機体の実現傾向への尊重と信頼そのものである(実現傾向への尊重と信頼の具体であり実行である)」という言い方ができるのではないか。そして「有機体の実現傾向」とは、引用Ⅰの言い方を借りると、生命そのものの新鮮な現れ――であるだろう。)

 

仮説とその実行というと、科学者が自己と対象を切り離し、対象の一定の条件下での振る舞いを観察することを標榜するような実験のことを、わたしはイメージしてしまうが、ここで言われている仮説とその実行は、きわめて価値的で、カウンセラーの実存的な関与(コミットメント)を要する営為であるように思える。なにせ、「生命そのもの」への信頼、というわけだから。自らの行動より生ずる結果に開かれ、理知による怜悧な分析と信念の修正に積極的である、というこの態度をも含めて。