ジブリヒロイン覚書 『かぐや姫の物語』を見て

かぐや姫の物語』を見た。
ジブリアニメの女性キャラクターの特徴と言っていいのだろうか。主人公の「かぐや姫(たけのこ)」にも、独特の魅力がある。
その魅力には、他のジブリ作品で描かれる人物たちと、どこか似たところを感じる。

 

以下、思いつくまま。試みにいくつかの要素に分解してみたもの。

1)人間的な弱さや過ち、不安定さをフルに生きているということ。
彼女たちは感情的で、よく泣き、怒り、よく笑う。
失敗して自分を責める。人の痛みにとても繊細であり強く揺さぶられる。
など。利害の計算を指針とするよりも、十全に燃えるよう行動しているように見える。

2)叡智。超個人性。媒介としてあること。
その一方では、神秘的な面持ちで沈黙する。また叡智と決然とした態度をもって人々に向って語りかける。
その語りは語っている個人を超えた何かの代弁をしているかのようでもある。超個人的なメッセージ。
人間的限界をもちつつ、異他的な何かと人間の媒介としても存在している(人間と月の世界の媒介。人間と自然の。人間と蟲の。大人とトトロの)

 3)勇気と普遍的なやさしさ。
勇敢に戦い、かつ弱い者にやさしい。世俗的な慣習や身分の貴賎にとらわれることがなく、人間だけでなく動植物をいとおしむ。

4)矛盾。
1~3の矛盾した側面を、矛盾そのままを生命的に(十全に・フルに)生きているということ。
人間的不安定さの中に、情動も叡智も弱さも勇気も超個人性もふくまれ、そっくり矛盾したまま生き切られるということ。

 

例示

ナウシカは、1~4のすべてがある。
・シータは、比較的おしとやか(姫様たちの中では姫様的)で、感情的な激しさはないが、飛行機の窓を渡って逃げようとしたり、ムスカラピュタの文明にとりつかれる愚かさをムスカに説くなど、2や3。汚い調理場で腕まくりするのもある種の勇敢さだろう。
千尋は、たとえば肥大化したカオナシと一対一で正座して対峙する場面は、2と3を見ることができる。異なるものへの決然とした態度と同時にある種のやさしさを持っている。また、湯屋カオナシを媒介しているとも言える。
紅の豚のフィオは、1の情動的率直さ、職人気質や飛行機乗りたちに説教する姿などは3的。
・キキは。物語の最後、トンボを助けるのは、ヒーロー的(3)。乗っているのがデッキブラシであり、たんなるヒーローでないところがよい。
・『トトロ』のメイちゃんですら、病気の母のためトウモコロシを両手で抱え無言で走る姿には、使命を帯びた人間の意志性を感じる。(=3)

 

上記4つの要素などに、無論キャラクターたちの魅力は還元できるものではない。
むしろ、いくつかの要素(属性)によって構成される、いわゆる「キャラ」的な単純さの際立ち(「○○キャラ」等と規定されてしまうような)にではなく、こうした矛盾を含む複雑な、ある意味捉えどころのないところに、生き生きとしたジブリのヒロインたちの魅力を感じる。

震災日記 9月6日

震災の影響で仕事が休みになっている。
一時、停電と、交通手段の麻痺と、断水の噂などで、生活上の障害も大きかったが、幸い、今はライフラインも回復し、都市の交通機能なども徐々に回復しつつあるようである。

 

9月6日 

札幌市。
夜中、大きな地震があったことは知っていた。それで一度眼が覚めたから。地震の警報と共に家は揺れていた。ひょっとすると家が倒壊するだろうか、と寝ぼけた頭で考えながら、蒲団にくるまって待つだけだった(深夜の大地震、死か生か命運を何ものかに委ねる以外、他に何の仕様があるのか)。揺れが収まってTVをつけると、相当の震度だと知る。が、もうこれ以上は無いだろうと無智ゆえの楽観により、再度眠りに就く。

 

停電の影響で、家電が使えないことに気づいたのは、朝、眼が覚めて何度もTVのリモコンのスイッチを押した時だった。本州在住の親から、寝ぼけた声で、電話が来る。いろいろニュースになっているらしい。震災のことは市営地下鉄が止まっていたため、自転車で1時間かけて出勤することになる。外に出ると、信号機はランプが消えており、無秩序の中、互いにアナログなコミュニケーションを送り合いながら、人も車も道を往来していた。赤青黄、どの眼にも灯りの灯らない信号機の群は、朝のさわやかな青空の下、死人のような顔に見えた。二条小学校のところ、大きな交差点の真ん中に立ち、ピッピピッピと笛を吹き交通を指図する交番のお巡りさんの姿は、ある種秩序の象徴のように思われた。この状況の中では、その制服を着たおじさんの確固とした立ち振る舞いだけで、微かな安心感が得られるもののようである。心ひそかにお巡りさんを尊敬した。コンビニは、電気のつかない薄暗い店内から外側の入口まで、人があふれている。言葉は交わさずも、見知らぬ他者に、どことなく、連帯感を感じた。「一緒に困難を共有している」という連帯感、だったろうか。(河合先生が、そういえば「こころのつながり」について語っているのを思い出した。)


河合隼雄講演 2007 篠山市 Hayao Kawai in Sasayama City

 

それらすべてが、非日常を告げていた。にもかかわらず、子どもたちは公園でボールを蹴り、老人はベンチで休んでいる。そして美しい初秋の晴天の下、わたしは仕事へと自転車をこぐ。このアンバランスが、「災害」という言葉を実感のないものにする(今もしている。わたしは「被災者」なのか)。気にかけてメールをくれた道外の友人に、返信した時も、自分が災害にあっているという実感は全くなかった。

 

停電した職場に着くと、今日明日と営業中止と聞かされる。今は使えるが、断水の可能性も今後あるとの噂があることも。来店したお客さんには、本日店は休みである旨を伝えつつも、休憩に場所は使っていただいた。やや甲高い声で、この地震の影響について落ちつきなく話を続ける中年の女性だった。一見にこにこしていたが、内心不安だったのかもしれない。はじめは相手のために、熱心に耳を傾けていたが、聴いているうちに、自分のこれからのことが心配になり始めた。そして一方的に話を続ける相手に苛立ちを感じて、しっかり話を聴けなくなった。しだいにお互い無言になった。
職場のまっ暗なキッチンで、できるだけの容器に水を溜め、たけるだけの米を炊き、この日は解散・帰宅となった。

 

ひょっとしたら、食べる物が無くなるかもしれない(普段自炊しないので備蓄していない。朝の時点ですでに食料品は売り切れているかもしれない)、家に着くころには断水しているかもしれない、という想像と、まさかこの時代・この大都市で、飢えることはあるまい、何とかなるだろうという楽観性と。そこまで大きな不安も無く、悲壮感も無かった。むしろ、非日常的な空気に、ある種の解放的な興奮とを、感じていた。そこには、仕事が休みになった、という嬉しさと、予測不能なサバイバル的状況をどう切り抜けるか、という冒険心も含まれていた。そして、日常のおきまりのパターンの一時的解除と、この状況を皆で共有している一種の連帯感覚は、お祭りの興奮にも似ていた。そして、この困惑すべき、あるいは他者の苦悩に配慮を寄せるべき事態で、お祭りのような高揚した気分を持ってしまっていることへの、後ろめたさもまた同時に。

 

自宅に着き、まずは風呂おけいっぱいに水をため、給湯器の機能しないシャワーで頭を洗った。水の冷たさよりも、断水の方を恐れた。風呂上がり、頭の乾き切らぬ前にベッドに寝ころび読書をした。気づくと2時間ほど寝ていた。

 

日が沈み、我が家の電気は復旧した。
が、4階の自宅の窓から見える、向うのビル群は、いつもついている灯りがない。
暗闇の中、好奇心と食品の調達のための探索のため、自転車で様子を見に出た。何もしないで落ちついては、いられなかった。というと切迫感があるようだが、そうではなく単に暇だったという部分も大きい。先の見えない中で、手持ち無沙汰。あの札幌大通り(西22丁目近辺)が、まるで山中奥深くのように、濃い闇にカバーされている。自転車のライトが照らすと闇の無から人や郵便ポストの輪郭が急に浮かび上がる。いつもは24時間営業のコンビニもスーパーも、ゴーストタウンの如く、冷たく静かである。ようやく煌々と灯りのともるコンビニを見つける。店内は食料はほぼ何もないにもかかわらず、駐車場は車でいっぱいで、人がたむろしている。灯りに集まるのは、虫みたいだと思った。虫の一匹であるわたしは、ほっとした。皆、心細いのだろうか。

 

自宅は、電気は着くものの、TVは番組は受信できず、PCもネットが接続できない。
1日目終了。

詠嘆は息となり、眼前の秋と一つ

先週のいつの日からか、感じている、秋を。甲子園も終わった。しばらく雨が続いている。北海道の夏は短い。
あれ、つい先日、春の訪れを感じていた気もするが…と月並みな回顧を行っている。
季「節」の変わり「目」は、「節目」として人を回顧に誘うようである。
しかし、過去はどこへ過ぎ去るのか。想起するこの今に、過去はいつも映現しているだけなのか。
無常への感傷とも、形而上的思索ともつかない思いも、立ち上る。

 

秋には、深まりがある。これは他の季節にはない豊饒さだ。
春が深まる、と言うのはしっくりこない。春は「満ちる」だろうか。春はいのちが、陽だまりから順にみずからを満たして行く。
夏が深まる、と言うのも同様、しっくりこない。言えるのは、緑深まる、とまでだろうか。夏は、ものが顕わになり、自分の濃さを表に照らし「高まる」。高まりは一定期間持続するが、「深さ」へ至ることはない。(といいつつ、「夏の深い夜」はある気がしてきた。この「深い」は、「夜」を修飾しているととってもいいし、夏の述語(「夏が深い、そんな夜」)ととってもよい)
また、冬が深まる、とは言えるが、「深い冬」は、過酷さやシーンとした動きの停止を感じる。停止した沈黙の荘厳さに美が凍っている。

 

それに対して「秋の深まり」においては、計りしれない奥の行く感じ、濃淡する陰影に、ある種の豊饒さが示されている感じがする。当然そこには、必ず待ちうける衰退と沈黙の冬が見え、その「もの」の陰りが詠嘆を滲ませるわけであるが。詠嘆は息となり、眼前の秋と一つ。

 

季節を味わうことも、人生の大きな楽しみである。こんなにすばらしいものが万人に対して、ただで与えられているのだから、神さまは大変気前がいい。とは言え、与えられていても、そのことに気づかないとか、味わい方を知らないことも多いのかな。「秋だね、きれいだね」以上に立ち止まることなく、人の眼はどこかへと向かって流れ、眼の前のそれを、気づくときには失っている。気づく時には失っているのが過去である。ついこないだの今年の春もまたそうであったように。

信じるとは

信じるとは、
手放し、尊び、ゆだねること。

 

手放す。川の上に木の葉をそっと浮かべるように、手放す。

何かに特定の影響を与えようと作為すること。特定の結果を得ようと意図すること。そうした思いを手放す。自分自身を手放す。

尊ぶ。信じる相手が、わたしとは別の自律した存在であると知り、うやまい、尊ぶ。川は川の力を持ち、どこかへと葉を運んで行く。その行き先がどこであるかは知らない。安全も保障はされていない。わたしの小さな了解や予見を超えている。ゆだねる。それにもかかわらず、身を預け、ゆだねる。

 

信じることは、うらまない。なぜなら信じる決意をしたのはわたしだから。それはみずから関与して行ったことだから。責任はわたしにある。手放し、尊び、ゆだねたとき、結果がどのようであっても受け容れる用意がある。

 

わたしがあなたを信じ得るか。

わたしはわたしとあなたを手放し、あなたを尊び、あなたにわたしをゆだねる。

 

わたしはわたしを信じ得るか。

わたしはわたしを手放し、わたしを尊び、わたしにわたしをゆだねる。

 

大雨や地震のニュースを聞いて。

大地は揺れ、天から豪雨降り注げばあたりは川となる。

人は人の世界内部に自然を飼育・管理し得るかのようにふるまう。

たとえば噴水や街路樹や花壇や排水溝を作って。

しかし人の世に大地や空や雨が属するのではない。

むしろ人の世がそれらに属する。庭の一角で巣作りに精を出す蟻や蜜蜂のように。 https://t.co/61JV6qQcWs

IOFI原理と鳥飛んで鳥の如し felt senseとfelt meaningの違い。

得丸さと子先生の、『ステップ式質的研究法 TAEの理論と応用』を読んでいます。

 

「TAE(Thinking At the Edge)は、うまく言葉にできないけれども重要だと感じられる身体感覚を、言語シンボルと相互作用させながら精緻化し、新しい意味と言語表現を生み出していく系統だった方法です。」(p.5)

 

このTAEの「使い方」の他、(TAEに関連する部分に絞ってではありますが)ジェンドリン哲学へのガイドとしても、わかりやすく、とても面白く読んでいます。

 

いまは詳しくは検討できないけれども、興味を惹いた所をいくつかピックアップしてメモしておきます。

 

「IOFI原理とは『それがそれ自身の実例である原理』です。どんな個も「そのようなもの」の一つの実例であるという意味です。「そのようなもの」としての「まとまり」の先にあるものが「普遍的なもの(X)」です」(p.16)

 

「人間にとっては、常に何でも、『何かのように』見え、聞こえており、パターン(シンボル)の背後には、常に「のようなもの」があります」(p.167)

 

道元の「鳥飛んで鳥のごとく、魚行きて魚に似たり」を思い出しました。「鳥飛んで…」はIOFI原理の実例を示す文だと考えるならば、理解することができる。個別的なその鳥は鳥の如きものであって、「鳥」の実例であり具体である。IOFI原理と、事事無礙というか華厳の四法界の関係は。……?

 

「本質」とは、「何であるか性」です。意識は何かをもたずに志向することはできない。意識の志向性は何かについての志向性であり、「何か」に向って行く。意識は本質をもたずにはいられない。だから「人間にとっては」(通常の意識にとっては)、何でも「何かのように」見え、聞こえる。これは、何であってもそれをそれとして指示する時すでにそれは本質規定的にそこにあるものとして志向されるということであり、対象は一般者に媒介されている、ということだとも言える。

 

いや、ジェンドリンが、「本質」とか「一般者(普遍)」とか「媒介」とか、既存の哲学用語を使わずにオリジナルな言葉で語っているところに、妙味があるのだから、さしあたっては余計な他からの持ち出しはせずに、そのまま読むべきか。

 

もうひとつだけメモ。

felt meaningと、felt senseは、同じと考えて良いと言われているが、違うのでないか。

 

ECMでは、体験過程とfelt meaningがほぼ同義に使われ、それはいつもそこにあると言われている箇所がある。「その塊自身は我々が”それがある”と言おうが言うまいが、いつでもそこに存在するものなのです」(『体験過程と意味の創造』p.34、ジェンドリン。筒井訳)

 

他方、フェルトセンスは通常、「ただそのまま存在しているわけではありません。それはかたちづくっていくべきものなのです」(『フォーカシング』p.29、ジェンドリン。村山他訳)。つまりフェルトセンスの形成には、直接に照合するというinnner actが必要。

 

だから、felt senseとは、直接に照合されたfelt meaningのことであると、意味的にはより特殊なものと解してはどうか。felt meaningに直接に照合し、形づくられるのが、felt senseである。そしてfelt meaningは直接に照合されなくとも日常的にいつもそこにあって、暗々裏に機能しているそれである、と。(いまは「…機能しているそれである」と「それ」として指示されるが、普段は「それ」としてすら指示されることなく機能し得、また時に「それ」として指示され得もする「それ」。)

 

うーん。ECMのp.34周辺以外のfelt meaningの用法も確認せねば。

フォーカシング-ジェンドリンからの恵み

「いまに全てを空け渡す」「自分を道端の小石のように、そこにおいておく」。

 

日常の様々な困難さの最中、例えば通勤までの電車の中で、こうした言葉が浮かび上がることがある。わたしはことばの持っている滋養が静かにからだに沁み行くのを確かめ、そのまま、それを味わう。

 

外的現実の何が変わるのでもない。従事しなければならない勤めは、そこにある。不安や恐れを抱いている私がそこにいる。しかし、そこにいると、それらの隙間からやがて柔らかく暖かい何かが現れる。それを招き、迎えるとき、祈りの内に感謝をささげるような気持ちが満ちてくる。

 

…わたしは何に感謝するのか。わたしは何にわたしを空け渡すのか。「何」の「何」かは知れぬ何か、あるいは「どこか」。「それ」は、我ならぬものであることは確かであるが、それに対して。…

 

さて、ユージン・ジェンドリンのFocusing(フォーカシング)から学んだこと(のひとつ)は、言葉を体験的に用いるということである。つまり、体験(正確には体験過程)に照らし観つつ言葉を用いる・あるいは言葉をからだの感じに響かせてきく(聞く・利く)ということである。

 

と言いながら、上の例が、正確に「フォーカシング」であると言っていいかどうかはよくわからない。今ここで眼を覚ましているという意味で「瞑想的」、あるいは、我を越えた何かへのdevotion(身を捧げている)という意味では「祈り」のようだ、と言ってもよいのだろうか。 

 

わたしにとってたしかなのは、「今にすべてを~」「自分を~」ということばがからだに明かな違いをもたらしたということ。そして、このようにからだの違いに常に照らすことを学んだのはフォーカシングからである、ということ。

 

これらのことばが明日役に立つかをわたしは知らない。もはや陳腐な間延びした言葉としか感じられず、からだは響応しないかもしれない。ジェンドリンは、フェルト・シフト(felt shift)は、「恩寵」(grace)だと言っている("Focusing",p.59)。それは操作の対象ではない。そうではあるが、あるとき、ある場所で、ある言葉が、わたしに新鮮な何かをもたらし、生の質を変えるという体験が存在する。そうした不思議への驚きの感受、喜びや感謝を、わたしはフォーカシングによって豊かにされているのである。