光は影を生み、影は光を受胎する

 

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書くことによって、漠とした何かが形をとり始め、表現へともたらされる。書くという行為によって、漠とした何かは、諸要素が互いに関連付けられ、整理される。書くという過程において生成した言葉は、玉石のように懐にしまい、取り出しては眺め、吟味することができるようになる。つまり、既存の表現・理解は、とりだして読むこと(あるいは思い出すこと)によって、再度陳述しなおす(しまっておいた意味を箱から取り出して床に展べ開げる)ことができる、ということである。例えば「玉石の持ち運び」というキーワードについての既知の意味の陳述を展開するとは、こうである。「『玉石の持ち運び』というのは、生みだした表現が保存(あるいは記銘)され、時おり見返し(想起し)ては吟味できる状態にあるということを意味する」。

 

さて、自らの書きしるした文章を読むとき(これは、「玉石」を取り出し、玉石として結晶した理解のつらなりを再び自己に展開させ、与えることである)、書くという努力において実り生成した、すでに整った表現・理解につきない何かを、行間に感じる。明確な表現・理解へと整理され凝結された一連の言葉の陳述によって、行間の「のみならざるもの」が浮き立つことを感じる。ここで言う、行間の「のみならざるもの」とは、既知なる陳述された理解、それだけに尽きない何か、を意味する。既知なる陳述された整理された理解は、例えるなら輪郭の確かな光である。光は影を誕生させる。ぼんやりした光はぼんやりとした影を生むが、輪郭のくっきりとした光は、影の存在をくっきりと生みだす。書くという過程で明確化された理解の光は、行間に新たな影の誕生を示す。

 

そして、行間の「のみならざるもの」=「影」は、新たな生成を予感させもする。既知の文を読み、「でもここに言われていることだけではない!」と感じるならば、そのとき「新たな生成の予感の生成」が起っているのである。光による影の生成とは、新たな生成の予感の生成である。なぜなら、「のみならざるもの」=「影」は、書くという営みの出発点であった、新たな「漠」であるからである。既知の文を読むとき、その表現への理解はなめらかに進行することができる。かつそれと同時に、既知の理解、既知の表現に漏れる何か、未知なるものの存在も感知されうる。それは開拓を待っている。

 

このように、既知の玉石の展開によって照る光は、新たな(次なる)玉石の土壌である影を生む。影は新たに生成される理解と表現の母体、肥沃な土である。光が影を浮き立たせるとき、影は新たな光を受胎している。光は影を生み、影は新たな光を内蔵する。ここにこそ創造のいのちがある。それゆえに、光が世界を一色に塗りつぶすならば、それは死を意味する。

 

前回記事では、書くことは玉石の結露であると言った。しかし、こうも言える。書くとは、影に受胎した光の出産を丁寧に世話することである、と。

 

 

TAEによる文章表現ワークブック―エッセイ、自己PR、小論文、研究レポート…、人に伝わる自分の言葉をつかむ25ステップ

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上の文章は、ステップ22「性質を考えて思考を深めよう」を使って。 

以下そのMEMO。

 

テーマ「玉石の持ち運び」とその展開

A玉石の展開

B行間の「のみならざるもの」

C新たな生成の予感

① 玉石の展開は、本来、行間の「のみならざるもの」である
=玉石の展開は、本来、行間の「のみならざるもの」の性質を持っている
なぜそう言えるか。玉石の展開のよって陳述された文は、整理された理解を言い表す、ゆえにそれはなめらかに理解されるが、その行間には、それだけでないもの「のみならざるもの」が一層感じられる。輪郭の確かな光によって、はっきりとした輪郭の影が浮き立つように。シャープで整然とした表現は、表現に照らされる理解に漏れる何かをかえって浮き立たせる機能を持つ。それは行間に満ちている。


② 行間の「のみならざるもの」は、本来、新たな生成の予感である
=行間の「のみならざるもの」は、本来、新たな生成の予感 という性質を持っている
何故そう言えるか。行間の「のみならざるもの」は、既知ではなく未知である。しかし未知なるものはそこに存在が感知されてある。未知のむこうは、開かれることを待ってある。わたしたちは新たな未知の向こうを開拓する可能性をもつ。

 

③ 新たな生成の予感は、本来、玉石の展開である
=新たな生成の予感は、本来、玉石の展開の性質を持つ
何故そう言えるか。
新たな生成の予感に基づき、言葉を紡ぎ、精錬する時、新たな玉石が生れるから。
新たな生成の予感とは、玉石の誕生、つぎなる玉石の展開の予感である。

※④玉石の展開は、本来、新たな生成の予感である。
既存の玉石の展開のうちに、新たな生成の予感は、本来的に含有されているからである。玉石の展開にともない、新たな生成の予感が生成する。換言すると、新たな生成の予感は、玉石の展開の局面として本来的にそこに含有される。あらたな光は、あらたな影を生む。光が世界を一色に塗りつぶすならば、それは世界の死を意味する。光は影を誕生させ、影は新たな色彩をもつ光の誕生の母体である。あるいはこうも言える。明晰な表現によって生れる行間、すなわち影は肥沃な土である。


新たな用語
玉石の展開、行間の「のみならざるもの」、新たな生成の予感、整理された理解、輪郭の確かな光、表現に照らされる理解に漏れる何か、既知、未知なるものの存在の感知、未知の向うの開拓可能性、新たな(次なる)玉石、新たな生成の予感の生成、光は影を誕生させる、影は光の母体、影は肥沃な土

用語チェーン
玉石の展開、行間の「のみならざるもの」、整理された理解、輪郭の確かな光、既知、光は影を誕生させる、新たな生成の予感、表現に照らされる理解に漏れる何か、未知なるものの存在の感知、未知の向うの開拓可能性、新たな(次なる)玉石、新たな生成の予感の生成、影は光の母体、影は肥沃な土

要旨
序)→玉石の展開によって、陳述される理解によって、行間の「のみならざるもの」が浮き立つ。既知なる陳述された整理された理解は、例えるなら輪郭の確かな光である。光は影を誕生させる。ぼんやりした光はぼんやりとした影を生むが、はっきりした光は、はっきりした影を生むように。行間の「のみならざるもの」=影は、新たな生成を予感させる。玉石を展開し既知の文を読むとき、表現に照らされる理解に漏れる何か、未知なるものの存在が感知される。それは開拓を待っている。玉石の展開によって照る光は、新たな(次なる)玉石の土壌である影を生む。新たな生成の予感の生成を生成する。影は新たに生成される理解と表現の母体、影は肥沃な土である。→結

 

「~は…である」を使って考えよう 『TAEによる文章表現ワークブック』

 

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 得丸さと子さんの『TAEによる文章表現ワークブック』(ステップ21)をもとに書きました。

A:formの生成

B:滑らかなすべり

C:玉石の持ち運び

A=B:formの生成は、思考をなめらかな滑りとさせformにそわせるものである

B=C:滑らかなすべりは、玉石の持ち運びのうちに内蔵するものである

C=A:玉石の持ち運びが可能となるのは、formの生成によってである

 

 

TAEによる文章表現ワークブック―エッセイ、自己PR、小論文、研究レポート…、人に伝わる自分の言葉をつかむ25ステップ

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書くことは玉石の結露。

文章を書くとは、いまだ言葉にならざる何かを、系統だち整った形へと仕立てる作業である。以前は、はっきりせず、つかみどころのなかったとある感覚が、カタチあるものへと精錬・形成され、言葉の表現へともたらされたならば、その過程において理解は滑らかになり、かつ産出された明晰な文を読むとき、得られた理解を再び確かめつつ、その理解は淀みなく滑らかに流れていく。

 

また、滑らかに理解される文は、あたかも玉石のように持ち運ぶことができる。何かのエッセンスを凝縮された形で言い表す言葉は、懐に入れた玉石のように、繰り返し取り出し、ながめ、ふれ、吟味して、また大事に保存しておくことができる。複雑な意味もなめらかに理解されるようよく整理されているならば、コンパクトな玉石に内蔵しておける。

 

そのような「玉石の持ち運び」が可能となるのは、明確な意味へと表現し行く過程において、はっきりしなかった何かが、焦点を結び、凝縮し、緊密になり、より確かなあるものへと生成することによって、である。はっきりしないあやふやな空気の塊は、手でつかむこともできず、たやすく見失われる。しかし、ひとたび玉石へ結露したならば、それは手に触れ、持ち、運ぶことができるのである。

 

わたしにとって、書くことの喜びは、まとまりを欠き、漠とした空気の塊を、より確かで価値ある何かへと形成し得るところにある。またそれによって、像を結んだ何かに、しっかり触れ、味わうことのできることにある。そしてそれによってさらにその先へと進んでいけることにある。

得丸さと子先生『TAEによる文章表現ワークブック』と倫理的な言葉。「クリームのひかりをはなつ軟膏」

『TAEによる文章表現ワークブック』

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なぜ自殺で楽になるのか(4)

 

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A「いやいや、絶対的な無だろうと部分的な無だろうとなんであれ、少なくとも、借金の取り立てがないことは確かなのだから、いま楽になる。それで別段説明として問題はありません。」

B「言われてみれば、そうですね。部分的な無であろうと、部分的でない無であろうと、ともかく「無い」という観念が今わたしを救う。余計なことを言いました。」

A「ところでしかし、「無い」という観念は、「有り」ますね。「有る」という観念も、「有り」ますが。「無い」という観念で救われる場合もあれば、一方で、「無い」という観念で苦しむこともありますね。」

B「うん、明日食う食べ物が「無い」とか。」

A「有るとか無いの思い一つで楽になったり苦しくなるのならば、都合よく「有る」とか「無い」とか思って生きていけないものでしょうか。」

B「何の根拠もないけど、明日の飯は「ある」に違いない、とか?」

A「そうそう。でも根拠ないから結局餓死するかもしれない。でも俺が死ぬことは「無い」と思っていれば、問題はないかもしれない。あるいは、死んでも極楽が「有る」と思って死ねば、安楽に死ねるかもしれない。」

B「そもそも、生きているなんてことが「有る」んだろうか。あるいは俺なんてものは「有る」んだろうか。俺なんてもんは「無い」んだ、「俺なんてもんは『無い』んだ」と思っている俺なんてもんも「無い」んだ。…って生きてみたら、もうだいぶ楽じゃないでしょうか。」

A「たしかに。俺の人生を生きている俺なんてものは「無い」って思えたら、そして、「無い」と思いながら、そのまま生きることができたら、違うでしょうね。
 そもそも、私が生きていると思っていましたが、生きているというのは、誰が生きているのか。俺が有るだの無いだの、都合よく思ったり思わなかったりすることが起きているその生を生きているのは、一体何なのか。いや、違う。その生を生きるのは「誰」とその都度取り立てて「言う」こともなく、そもそも進行してしまっているこの「生」、「それ」を「生」と言ってしまっていいがわかりませんが(とりあえずそう言っておきますが)、”これがそうなっているというこのこと”は、私が生み出したのではない、ということ! ”これがそうなっているというこのこと”!! それが「一体何か」「なぜか」云々と今は問おうとは思いません。いまは、「!!」でありたい。

 「つらいことがあったら死んでしまいたい」。これも、私が生み出したのではないところの「これがそうなっている、このこと」の一部なのであり、そして「!!」への感度はわたしを豊かにしてくれますから。」

内的な沈黙

音声として言葉を外に発さない時でも、こころのなかに、想念を巡らせているなら、内面的には沈黙してはいない。電車に揺られ、見知らぬ他者の間にいて、口を閉ざしていても、悩みや不満に囚われている時、心の中には、様々なイメージや、言葉が去来している。いわゆる「内言」。ひとり黙っていても、内的には様々なことを自己に語り、思いを巡らせ得る。それは、自覚的にも、無自覚的にも起こる日常の事実である。真に黙っていることはきわめて少ない。まずはその事実に気づくことから始まる。

 

ただ、音声を発することなく「黙っている」という、通常の意味での沈黙を外的な沈黙とするなら、「内的な沈黙」とでも呼ぶべき実存の様態がある。その時、人は想念を心によぎらせることがない。自らが自らに語ることをやめる。心に像を作り浮かべることをやめる。

 

さて、他者に心から耳を傾けるには、内的な沈黙を要する。
内的に沈黙していない時、他者がそこにいることを感じることは困難である。例えとなりに人がいて、私に語りかけてきていても、わたしがわたしの想念にとらわれ、巻き込まれ、気もそぞろであるならば、他者の言葉や存在は、わたしの中に入ってこない。入って来ても、しっかりとそれは感じられていない。

 

他者と共にいる「そこ」にしっかりおり、他者に耳を傾けるためには、内的な沈黙を要する。内的に沈黙するその時、他者の存在に真に触れうる空間(「ここ」として直指され得るたったいまの「そこ」。それとわたしの存在は別ではありえない)が開かれるからである。

わたしが無的な包摂である場所にいる

自分が前ノートに書きつけた言葉に救われた。


「無的に包摂するとは、自由ならしめる空間をつくること。
 ここでは、包み込むことが、解放することである。

 

 私が無的に包摂するのではない
 私が無的な包摂であるのだ

 

 現在に全てを空け渡そう
 私を一粒の小石の如くそこにおいておこう」

 

…この言葉を誰かが読んでくれたとして、その方が理解してくれると期待してはいけないだろう。語の用法が私的すぎるから。その意味を改めて解説することすら困難である。例えば、「私」の語で言われているものは、二種類あるのだが、その意味を分節し、言葉で語ることができたなら、哲学になるのかもしれない。あるいは詩になるのか。自分にとっては、これと直接触れられるように思われることが、公共的には通用しない。

 

しかし、この言葉が、自分には「効く」。「私が無的な包摂である」。これの示すところに「いる」(「ある」)と、事実、不安感のようなからだのもやもやが私から解けていく。この言葉は、この言葉が出てきた体験を、ある意味で、喚起するのである。体験から出た言葉が、もとの体験を喚起してくれる(有難いことに!)。

 

今は「わたしが無的な包摂である場所にいる」という言い方が、しっくりくる。

 

「わたしが無的な包摂である場所にいる」。

 

アクセプタンス&コミットメントセラピーの言い方を借用すると、これは「観察者としての自己」(「文脈としての自己」)でいる、という説明の付け方も可能ではある。なんだか、意味が取りこぼされてしまう気もするが。しかしそう説明するならば、この言葉を思い出し、味わうことは、ある種の「マインドフルネス・トレーニング」であるということになるだろう。それは、純粋に「いま・ここ」と接触すること、というよりむしろ、「いま・ここ」に「なる」ということ、「いま・ここ」で「わたしはある」ということ。それに等しい。